2012年2月13日 (月)

夢のまた夢

皆の者、大儀である
"奇妙丸!あれは猿ではない!ひとである!"
ついに解禁か、大河ドラマ秀吉
いやなに、ケーブルテレビの再放送の話じゃ
1996年に放送されたこの大河、かなりの上出来じゃ
まず、なんと言ってもキャスティングが素晴らしい
ざっと一話見ただけでも
竹中直人(秀吉)、信長(渡哲也)を筆頭にして、
明智光秀(村上弘明)、蜂須賀小六(大仁田厚)、秀長(高嶋政伸)、なか(市原悦子)、柴田勝家(中尾彬)、竹中半兵衛(古谷一行)などなど
一癖もふた癖もある豪華メンバーが史実で伝えられる人物イメージを壊していないのが良い(ここ数年の大河はよく理解できんw)
秀吉役の竹中直人は猿顔でどんぴしゃ
竹中直人といえば、映画あずみの加藤清正役も良かったわい
それになんと言っても渡哲也の信長は威厳があふれかえり、演出も素晴らしい
哲也さんはどすの効いた声なのでなおさら強烈だわい
わし的には哲也さんの信長が一番好きじゃな
冒頭の言葉、嫡男の奇妙丸が猿こと秀吉とじゃれているとこに突如現れ、息子を蹴飛ばして一言はっするw
謀反を謀る弟をしものにかけ、母から鬼じゃと言われても顔色変えず冷静沈着
ケーブルテレビ見れる武将は一見の価値あり候

2009年10月12日 (月)

夢幻の城

皆の者、大儀である。又右衛門、そちの苦労大儀であった。え?なんのことかって?たわけめ。信長の言葉は短いのじゃ、理解致せ。何を隠そう見てきた"火天の城"。なかなか良かったわい。椎名桔平演じる信長だがなかなかいい。怒鳴り声がすばらしい。映画を見ていた全員が恐れ入って頭を上げられず(たぶん)。
天下統一を目前にしたわしは琵琶湖のほとりに当時の常識をくつがえす城の建造を命じた。この物語は城普請の頭領に拝命された岡部又右衛門なる実在人物の苦労の日々を描いたものじゃ。安土城は焼失したため現存しない。しかし当時キリスト教布教のため来日していた宣教師フロイスの記録などにも残っておる。その異様さは天守ひとつ見ても、赤く八角形の上層部分を持っていたことでもわかる。これには異説もあるようだが、美的感覚が優れ西洋文化に興味を示すわしならやりかねない。後にも先にもこんな奇抜な城はないのだから。惜しむべきはわずか数年で焼失したことであるが、その原因もはっきりしていないのでよりミステリアスな城としての印象が強い。本能寺の変後、光秀の部下であった明智秀満なる人物が安土城を一度占領し城を放棄する前に焼いたという記録がある。また信長の息子信雄が凡愚であったため突発的に焼いたという記録がある。前者は当時の戦略としてわかるにしても、なぜ息子が焼く必要があるのか理解できないとこだ。この城を使いこなせるのは我が父のみと悟ったのか、織田家をのっとろうとする秀吉の顔色をうかがったのか、ぬれぎぬなのか。ラストシーンで城に篝火をつけまくるのだがまさに夢幻の城となったわけだ。Ca390688

2009年5月28日 (木)

夢半ば

皆の者、大儀である。今日は儂の果たせなかった夢を語ったフィクションを紹介しようぞ。六天魔王、破壊王、猜疑心の塊、梢を渡る猿候などなど、ろくな批判の絶えん儂じゃが、あの戦乱あふれ、諸国は乱れまくり、正義がないと言われた時代に生まれ、親・兄弟でさえ油断すれば寝首をかかれると教えられた。そんな時代に鉄槌を下し、儂が目指したものがいったい何じゃったのか、一読の価値ある書であった。宣教師や海賊、貿易商人との会話の中で、天下平定後、海外を目指したということは容易に推測できる。後の秀吉は朝鮮出兵という形で海外遠征を試みるが大失敗に終わる。しかし経済観念がかなり発達している信長は、領土欲というより、むしろ商業で莫大な富を得る可能性を探しているところがみそである。近世を開いたと言われる儂が、もしあと数年生きておれば、日本の歴史は意外な形で変わっていたかもしれんな。宣教師からもらった地球儀を見ながらワインを傾ける姿が目に浮かぶようである。Ca390332

2009年4月26日 (日)

天地人ある意味クライマックス

皆の者、大儀である。わしの余命もあと少しのようじゃw。それにしても信長役の吉川晃司だがなかなか良いわ。今まで多くの役者がわしを演じてきたが、今回、威厳たっぷりのオーラがあふれておるな。吉川晃司も不惑に達しておるようだが、言葉の隅々、行動に不良の影が見え、睨む目つきも堂に入っておる。実物の信長はかなり甲高い声を発していたと言われるが、低い声も迫力があるわい。大名や高貴な公家でさせ、面をあげさせず平伏させたまま対面させたと言われる信長ゆえバンバン威厳を放ってほしいもんじゃ。ドラマの中の光秀を足蹴りにしたというのは、いくつかの書物にあり、信長の性格からいって十分ありえるわい。さて威厳という方面から見ると、直江兼続が仕えた上杉景勝だが、この人物もかなりすごかったらしい。無口であるという点は演技上の節々に表われておるが、威厳はもう少しほしいわい。ここで景勝に関する逸話を2、3。景勝は背が低く、両眼が鋭く参勤交代の時、籠周りの者はもちろん数百人いる供の者は誰一人咳払い一つなく、足音だけが響いていたという。またある日、供の者が数多く船に乗りすぎて沈みそうになった時、景勝が杖を振り上げると、泳げない者までわれ先に川の中へ飛び込んだという。そんな景勝が一度だけ笑ったそうな。景勝は猿を飼っていたが、ある時この猿が景勝の座に座り、景勝が家臣に対するときの真似をしたようだ。これにはさすがの景勝も噴き出したそうだ。後にも先にもこれが家臣に見せた一回限りの笑いだったという。

2008年2月21日 (木)

本能寺の変真相その5

前回の続きといってみよう。三職推任時期の一年ほど前から、信長は朝廷にプレッシャーをかけてきた経緯がある。京都で馬揃えという今で言う軍隊パレードを実施したわけだが、公式には天皇からの要望でパレードが開かれることになったとある。そしてその席で天皇が左大臣の勅使をたてている。つまり軍事的圧力によって官位を得たという見方ができるわけだ。信長も官位を得るため、老獪な天皇相手に結構苦労してるようだ。
本能寺の変後、光秀が秀吉と戦い、やぶれさった時、光秀の家臣のひとりが秀吉方につかまり、ひき回しにあった時の様子が、例の疑惑の日記に書いてあるが、ここで信長討ちの談合があったことをずばり明言しておる。これは変前に談合に加わっていたか、あるいは知っていたかのどちらかになる。
さらに疑惑を語る上でもっとも重要な物件がある。公家衆と親交のあった吉田兼和(かねみ)なる戦国時代に生きた実在人物が日記をやはり書いておる。この"兼見卿記"と言われる書も第一級資料である。この人物かなり筆まめで、当時の公家にかぎらず庶民の暮らしを知る上で重要な資料なのだが、変が発生する年の正月から光秀が秀吉にやぶれる時期について、なぜか不自然に正本、別本の2種を残したり、変というもっとも重要な日を挟んでなぜか空白なのである。これを皆の者はどう解釈する?
そしてもうひとり、三職推任によって職を失う近衛前久(このえさきひさ)なる人物がいる。前回ブログに信長がきれた公家がいると書いたが、実はこの人物なのだ。ただ職を失っても時の権力者には逆らえないだろうという説も根強いようだ。
最後にもうひとり、里村紹巴(さとむらじょうは)なる人物がおるが、戦国時代はやった連歌(れんが、歌の一種)の先生であった。光秀は教養もかなりあり、茶はもちろん連歌にも興味を示し、実際にこの人物と交流がある。で、変を起こす一日前に光秀は、この人物を呼んで、歌会が始まるわけだが、ここで光秀の句を紹介しよう。
"時は今天が下しる五月かな"
少し歴史に興味ある人なら一度は聞いたことがあるこの句。"時は今"という響きがなんとも決意の表れととれるだろう。そしてこの席に、変前に情報が漏れて信長に逃げられてはまずいというこの席で、わざわざ表明する必要があるだろうか?この句も本能寺の変をよりミステリアスにしておる原因であろうな。
結論として、もし黒幕説が真実だとすれば、今までに述べた人物たちが共同して信長討ちを計画したというせんが非常に高いかもしれぬな。

2008年2月19日 (火)

本能寺の変真相その4

怨恨説、野望説、そしてそれに続くのが黒幕説である。おそらく歴史に多少とも興味あるひとはこの説がおもしろいかもしれぬ。年末年始に"信長の棺"スペシャルが放送されたが、その中では秀吉が関わっておる展開であった。また歴史小説などで家康が関わる展開もあったが、歴史学者の中でこの二人が関わっていることを主張するひとはあまりいないようだ。まぁ少し考えてみれば、この二人はシロだろう。秀吉は変が発生した時、中国地方の毛利氏と戦さしておった。光秀は変後の戦後処置として毛利氏に信長を討ったことを伝える使者を放ち、毛利氏と共に秀吉を討つ事を考えていた。だが使者は秀吉の陣でたまたまつかまり、運良く秀吉に情報が漏れただけで、その結果、後に光秀と戦うことができたのだ。いくら要領のいい秀吉でも、ここまで危ない橋は渡らないだろう。また家康だが、こちらは堺見物中に変が発生したわけだが、信長の同盟者である家康も抹殺するため、光秀は追っ手を放っておる。家康は堺(大阪)から自国領土である三河(愛知県東部)まで、少ない近習と共に命からがらに逃げ帰っておる。到底そんな余裕はなかったわけだな。後に天下を統一する二人も、ひとつ間違えば、この世にいなかったわけだ。では黒幕はいないのであろうか?ここで近年、学者の中で提唱された黒幕説として、朝廷がからんでおったというのが興味深い。朝廷すなわち天皇や親族にあたる皇族だが、信長の天下統一が進むにつれてある種の身の危険を感じたわけだ。戦国時代の朝廷は政治的権威はまったくなく(将軍でさえ無視される時代だからもっともである)、扶持も獲得できなかったため、かなりの貧窮状態であった。京にある皇族の屋敷もぼろぼろであったという。そこで金をもっている大名にすがるわけだが、信長の父信秀はよく献金を納めていた。信長も父の教えを継承したようだ。代わりに朝廷は官位を武家の棟梁に与えることでGIVE&TAKEが成り立つ。また信長も朝敵討伐という大義名分も得るわけである。しかし、将軍を追放し、権力が大きくなるに従い、信長はその朝廷をも支配下におきたくなったのだろう。自分を神とあがめよと言ったぐらいの信長だ。ありえない話でもない。ここで資料として、皇族のひとりが当時の日記を書いておる。皇族の日記関連は第一級資料で信憑性は一般に高いと言われておる。これによれば、信長に将軍・太政大臣・関白のどれでも好きな官位を与える使者を出したとある(以後これを三職推任と言う)。信長はこの時、毛利氏という強敵を控え、事務処理に携わる余裕がなく辞退しておる。しかし一度既成事実を作ることでその後の統一を有利に進めることぐらいは考えていただろう。官位を与えるためには、まずその空きを作らねばならぬ。また武家の最高権力を意味する官位であるので、通常は親族と共に数日は吟味するのが通例だったようだ。事実、信長が左大臣という官位をもらう時も数日を要していると同文献にある。ところがこの三職推任に対してはなぜか、あっさりとOKの許可がでたようである。そしてその三職推任のたった一月後に変が起こるわけだ。もともとは信長の方から裏工作で要求したとの見方もあり、そうなるとさらにきな臭い。けじめのつかぬことを非常に嫌う性格である信長が、このいいかげんな事務処理でやっぱり官位をあげれませんなどと言われたら、普通の大名のようにただで引き下がるとは到底思えぬ。しかも事実、信長は別件だが皇族相手にもきれたことがあるようだ。つまり変が起こることが予めわかっていて、その場がしのぎればいいということである。この朝廷黒幕説、実は物的証拠がまだあるが、それは次回にしよう。少しは楽しめたであろうか。

2008年2月14日 (木)

本能寺の変真相その3

さてまた続きといこう。眠らないでちゃんと聞いてくれよ。怨恨説と並ぶ説に野望説がある。光秀が信長に仕えた当時から天下統一を密かに狙っていたということだ。信長が京の本能寺に出向いた時、たまたま主な重臣達は日本全国に地方軍司令官としてちらばっていた。中国地方は羽柴秀吉、北陸方面は柴田勝家、四国方面は丹羽長秀、関東方面は滝川一益、そして信長の同盟者家康は先に述べたように安土で接待された後、わずかな供と共に堺(大阪)見物といった具合である。さらに光秀は秀吉助太刀のため自国の丹波(京都)にて兵を集めるが、ここは本能寺のすぐ近くに位置する。乱を起こす上でこれほどの好条件はまずないだろう。怨恨説を主張する主な書は江戸時代に書かれたが、野望説をおす書は、秀吉時代に書かれたものが多い。通常、より時間に近い方が真実に近いのだが、ひとつ問題がある。秀吉の政権下で、怨恨が動機となった場合、光秀に同情の余地が入り、織田政権を奪った秀吉にとって都合が悪いのである。そこで野望説をピックアップさせれば、大義名分が立つのである。下克上の世とは言っても天下を統一するには戦に負けないのはもちろん、大儀名分がなければ、ひとびとはついてこないのであったわけだ。

2008年2月13日 (水)

本能寺の変真相その2

さて前回の続きといこう。光秀謀反の動機として古来よりもっとも言われているのが怨恨説である。先に述べたように光秀は信長に重宝されており、織田家家臣の中では秀吉と並ぶ出世頭であった。家臣の中で一番先に城を持ったのは何を隠そう光秀である。信長はかなりの合理主義者で、父信秀以来、織田家にずっと仕えてきた重臣達も政策・戦略の要領が悪いと信長に判断されると有無を言わせず、織田家から追放されている。そういう中で光秀・秀吉を見習えと家臣どもにハッパをかけていたぐらいだ。しかし変が発生するたった一年ほど前からこの関係がぎくしゃくしだしたようである。もともと信長は気性の激しい性格で少しでも気に入らぬことがあると光秀(というか家臣全員に対して)かなりきれていたようである。ある城を落とす時に司令官である光秀は、敵の城主の投降と引き替えに自分の母(一説にはデマ)を人質として差し出した。しかし信長は城主の命乞いを許さず、その場で切ってしまった。怒った敵の城主の家臣は見せしめに光秀の母を切ってしまったという話がある。また、ある時、数年来かかった武田攻めがいよいよ終わるという段階で、光秀がわれらもよう骨折って辛抱したと言ったのを信長が聞きとがめ、おまえがどれほどの骨を折ったかと光秀の頭を何度も殴りつけたということである。さらに、その武田攻め完了の祝儀で徳川家康が尾張に出向いた時、光秀は信長から接待役を命じられておるが、取り寄せた料理の素材が腐り、異臭がしたので信長が怒りまくり、金品を自費で投じた光秀の接待役を取り上げてしまった。その代わりに、中国地方の強敵毛利氏に対する軍司令官である秀吉の助太刀をするように命令されている。しかも光秀が今知行しておる国を取り上げ、毛利氏領土の国を切り取りしだい与えるという命令であった。知行地がなくなるということは、家臣達の扶持も確保できないので、事実だとすれば無茶な話である。ライバルである秀吉を助けるということも光秀のプライドが許さなかっただろう。怨恨説にリンクするが、あまりにもきれまくる信長に対する将来不安説による突発的な事件だという見方もできる。

2008年2月 5日 (火)

本能寺の変その真相

またブログ書けないモードにならない内にUPしておこう。日本人なら誰もが知ってる本能寺の変について、その真相をいろいろと推理したい。一度に書ききれないので連載物でいこう。天正10年(1582年)旧暦6月2日明け方、わしは明智光秀に本能寺で討たれた。生涯戦い続けやっとの思いで天下統一を目前に控え、さそがし口惜しい思いをしただろうと常人は思うだろうが、そこは信長の潔い所で、謀反の主導者が光秀であると知ると、一言だけ"是非に及ばず"と言い残し、数少ない家来衆と共に戦って散ったとある。この謀反の真相は古来より歴史学者によってさまざまな説が提唱された。ただ、その証拠となる文献は江戸時代になってから書かれたものも多く、表現が誇張されていたり、同じ時期に書かれた書でも内容が微妙に違うなど、資料として難しいところがある。しかし、これらの文献を全く無視しても歴史学が成り立たないのである。前置きが長くなったが、まずは光秀の出目(出身地)や信長へのアクセス過程などを見てみよう。実は光秀が信長に仕官する前の若かりしころの確かな文献というものはまだない。ある文献の中で美濃国(岐阜県)の住人で明智十兵衛尉なる人物がいたと書かれており、一般的にはこれを光秀としているようだ。この人物かなりの身分であると書かれているが、そのような人物がある日突然歴史に登場するようなことはあまりなく、後世、書かれた家系図の父親やその書の父親が一致しないなど、不明な点が多い。また別の書では諸国を浪人として放浪していた時期もあったとか、あるいは足利将軍の近臣団の中に明智という名の人物がいたとか、はたまた信長の正室濃姫の親戚であったとか、これだけひとつとってもさまざまな説がある。歴史的に確かなことは、信長が新将軍を推挙するため、京に上る時、細川藤孝という将軍の近辺衆と共に信長と将軍家との間を取り持っているようだ。以後、信長の家臣となる訳だが、そういった将軍家や朝廷との緩衝剤として信長が光秀を多用したのは言うまでもない。

2007年11月12日 (月)

これはすごい

大河ドラマ続きで、最近ものすごく感動した時代劇を発見したのじゃ。栗塚旭さん主演の"俺は用心棒"というモノクロの時代劇じゃ。はっきり言ってこれはしぶすぎです。時代背景は幕末の新撰組発生時期。沖田総司も微妙にからんで、いわゆる庶民の味方の用心棒がすかっとし、とても哀愁ただようのだ。ちなみに"待っていた用心棒"、"帰ってきた用心棒"と続編があり、まるでウルトラマンのような活躍じゃ。もしケーブルテレビ見れるおかたがおれば、時代劇専門チャンネルを必見あれ。

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