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2008年2月 5日 (火)

本能寺の変その真相

またブログ書けないモードにならない内にUPしておこう。日本人なら誰もが知ってる本能寺の変について、その真相をいろいろと推理したい。一度に書ききれないので連載物でいこう。天正10年(1582年)旧暦6月2日明け方、わしは明智光秀に本能寺で討たれた。生涯戦い続けやっとの思いで天下統一を目前に控え、さそがし口惜しい思いをしただろうと常人は思うだろうが、そこは信長の潔い所で、謀反の主導者が光秀であると知ると、一言だけ"是非に及ばず"と言い残し、数少ない家来衆と共に戦って散ったとある。この謀反の真相は古来より歴史学者によってさまざまな説が提唱された。ただ、その証拠となる文献は江戸時代になってから書かれたものも多く、表現が誇張されていたり、同じ時期に書かれた書でも内容が微妙に違うなど、資料として難しいところがある。しかし、これらの文献を全く無視しても歴史学が成り立たないのである。前置きが長くなったが、まずは光秀の出目(出身地)や信長へのアクセス過程などを見てみよう。実は光秀が信長に仕官する前の若かりしころの確かな文献というものはまだない。ある文献の中で美濃国(岐阜県)の住人で明智十兵衛尉なる人物がいたと書かれており、一般的にはこれを光秀としているようだ。この人物かなりの身分であると書かれているが、そのような人物がある日突然歴史に登場するようなことはあまりなく、後世、書かれた家系図の父親やその書の父親が一致しないなど、不明な点が多い。また別の書では諸国を浪人として放浪していた時期もあったとか、あるいは足利将軍の近臣団の中に明智という名の人物がいたとか、はたまた信長の正室濃姫の親戚であったとか、これだけひとつとってもさまざまな説がある。歴史的に確かなことは、信長が新将軍を推挙するため、京に上る時、細川藤孝という将軍の近辺衆と共に信長と将軍家との間を取り持っているようだ。以後、信長の家臣となる訳だが、そういった将軍家や朝廷との緩衝剤として信長が光秀を多用したのは言うまでもない。

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コメント

書き溜めしなはれ。
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