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2008年2月13日 (水)

本能寺の変真相その2

さて前回の続きといこう。光秀謀反の動機として古来よりもっとも言われているのが怨恨説である。先に述べたように光秀は信長に重宝されており、織田家家臣の中では秀吉と並ぶ出世頭であった。家臣の中で一番先に城を持ったのは何を隠そう光秀である。信長はかなりの合理主義者で、父信秀以来、織田家にずっと仕えてきた重臣達も政策・戦略の要領が悪いと信長に判断されると有無を言わせず、織田家から追放されている。そういう中で光秀・秀吉を見習えと家臣どもにハッパをかけていたぐらいだ。しかし変が発生するたった一年ほど前からこの関係がぎくしゃくしだしたようである。もともと信長は気性の激しい性格で少しでも気に入らぬことがあると光秀(というか家臣全員に対して)かなりきれていたようである。ある城を落とす時に司令官である光秀は、敵の城主の投降と引き替えに自分の母(一説にはデマ)を人質として差し出した。しかし信長は城主の命乞いを許さず、その場で切ってしまった。怒った敵の城主の家臣は見せしめに光秀の母を切ってしまったという話がある。また、ある時、数年来かかった武田攻めがいよいよ終わるという段階で、光秀がわれらもよう骨折って辛抱したと言ったのを信長が聞きとがめ、おまえがどれほどの骨を折ったかと光秀の頭を何度も殴りつけたということである。さらに、その武田攻め完了の祝儀で徳川家康が尾張に出向いた時、光秀は信長から接待役を命じられておるが、取り寄せた料理の素材が腐り、異臭がしたので信長が怒りまくり、金品を自費で投じた光秀の接待役を取り上げてしまった。その代わりに、中国地方の強敵毛利氏に対する軍司令官である秀吉の助太刀をするように命令されている。しかも光秀が今知行しておる国を取り上げ、毛利氏領土の国を切り取りしだい与えるという命令であった。知行地がなくなるということは、家臣達の扶持も確保できないので、事実だとすれば無茶な話である。ライバルである秀吉を助けるということも光秀のプライドが許さなかっただろう。怨恨説にリンクするが、あまりにもきれまくる信長に対する将来不安説による突発的な事件だという見方もできる。

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コメント

信長がそれほど切れやすい人物だったとは、知らなかった。なかなか面白い。
ためになるのぅ。

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