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2008年2月19日 (火)

本能寺の変真相その4

怨恨説、野望説、そしてそれに続くのが黒幕説である。おそらく歴史に多少とも興味あるひとはこの説がおもしろいかもしれぬ。年末年始に"信長の棺"スペシャルが放送されたが、その中では秀吉が関わっておる展開であった。また歴史小説などで家康が関わる展開もあったが、歴史学者の中でこの二人が関わっていることを主張するひとはあまりいないようだ。まぁ少し考えてみれば、この二人はシロだろう。秀吉は変が発生した時、中国地方の毛利氏と戦さしておった。光秀は変後の戦後処置として毛利氏に信長を討ったことを伝える使者を放ち、毛利氏と共に秀吉を討つ事を考えていた。だが使者は秀吉の陣でたまたまつかまり、運良く秀吉に情報が漏れただけで、その結果、後に光秀と戦うことができたのだ。いくら要領のいい秀吉でも、ここまで危ない橋は渡らないだろう。また家康だが、こちらは堺見物中に変が発生したわけだが、信長の同盟者である家康も抹殺するため、光秀は追っ手を放っておる。家康は堺(大阪)から自国領土である三河(愛知県東部)まで、少ない近習と共に命からがらに逃げ帰っておる。到底そんな余裕はなかったわけだな。後に天下を統一する二人も、ひとつ間違えば、この世にいなかったわけだ。では黒幕はいないのであろうか?ここで近年、学者の中で提唱された黒幕説として、朝廷がからんでおったというのが興味深い。朝廷すなわち天皇や親族にあたる皇族だが、信長の天下統一が進むにつれてある種の身の危険を感じたわけだ。戦国時代の朝廷は政治的権威はまったくなく(将軍でさえ無視される時代だからもっともである)、扶持も獲得できなかったため、かなりの貧窮状態であった。京にある皇族の屋敷もぼろぼろであったという。そこで金をもっている大名にすがるわけだが、信長の父信秀はよく献金を納めていた。信長も父の教えを継承したようだ。代わりに朝廷は官位を武家の棟梁に与えることでGIVE&TAKEが成り立つ。また信長も朝敵討伐という大義名分も得るわけである。しかし、将軍を追放し、権力が大きくなるに従い、信長はその朝廷をも支配下におきたくなったのだろう。自分を神とあがめよと言ったぐらいの信長だ。ありえない話でもない。ここで資料として、皇族のひとりが当時の日記を書いておる。皇族の日記関連は第一級資料で信憑性は一般に高いと言われておる。これによれば、信長に将軍・太政大臣・関白のどれでも好きな官位を与える使者を出したとある(以後これを三職推任と言う)。信長はこの時、毛利氏という強敵を控え、事務処理に携わる余裕がなく辞退しておる。しかし一度既成事実を作ることでその後の統一を有利に進めることぐらいは考えていただろう。官位を与えるためには、まずその空きを作らねばならぬ。また武家の最高権力を意味する官位であるので、通常は親族と共に数日は吟味するのが通例だったようだ。事実、信長が左大臣という官位をもらう時も数日を要していると同文献にある。ところがこの三職推任に対してはなぜか、あっさりとOKの許可がでたようである。そしてその三職推任のたった一月後に変が起こるわけだ。もともとは信長の方から裏工作で要求したとの見方もあり、そうなるとさらにきな臭い。けじめのつかぬことを非常に嫌う性格である信長が、このいいかげんな事務処理でやっぱり官位をあげれませんなどと言われたら、普通の大名のようにただで引き下がるとは到底思えぬ。しかも事実、信長は別件だが皇族相手にもきれたことがあるようだ。つまり変が起こることが予めわかっていて、その場がしのぎればいいということである。この朝廷黒幕説、実は物的証拠がまだあるが、それは次回にしよう。少しは楽しめたであろうか。

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コメント

ほぉ~。黒幕が朝廷だったとは。
無きにしも非ずというところですな。なかなか興味深い
文章が長い時は、ちょっと段落を入れてくれると格段に読みやすくなるので、よろしくじゃ。

う。。。わしとしたことが
つい調子に乗ってしもうた
以後気をつける

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