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2008年2月

2008年2月21日 (木)

本能寺の変真相その5

前回の続きといってみよう。三職推任時期の一年ほど前から、信長は朝廷にプレッシャーをかけてきた経緯がある。京都で馬揃えという今で言う軍隊パレードを実施したわけだが、公式には天皇からの要望でパレードが開かれることになったとある。そしてその席で天皇が左大臣の勅使をたてている。つまり軍事的圧力によって官位を得たという見方ができるわけだ。信長も官位を得るため、老獪な天皇相手に結構苦労してるようだ。
本能寺の変後、光秀が秀吉と戦い、やぶれさった時、光秀の家臣のひとりが秀吉方につかまり、ひき回しにあった時の様子が、例の疑惑の日記に書いてあるが、ここで信長討ちの談合があったことをずばり明言しておる。これは変前に談合に加わっていたか、あるいは知っていたかのどちらかになる。
さらに疑惑を語る上でもっとも重要な物件がある。公家衆と親交のあった吉田兼和(かねみ)なる戦国時代に生きた実在人物が日記をやはり書いておる。この"兼見卿記"と言われる書も第一級資料である。この人物かなり筆まめで、当時の公家にかぎらず庶民の暮らしを知る上で重要な資料なのだが、変が発生する年の正月から光秀が秀吉にやぶれる時期について、なぜか不自然に正本、別本の2種を残したり、変というもっとも重要な日を挟んでなぜか空白なのである。これを皆の者はどう解釈する?
そしてもうひとり、三職推任によって職を失う近衛前久(このえさきひさ)なる人物がいる。前回ブログに信長がきれた公家がいると書いたが、実はこの人物なのだ。ただ職を失っても時の権力者には逆らえないだろうという説も根強いようだ。
最後にもうひとり、里村紹巴(さとむらじょうは)なる人物がおるが、戦国時代はやった連歌(れんが、歌の一種)の先生であった。光秀は教養もかなりあり、茶はもちろん連歌にも興味を示し、実際にこの人物と交流がある。で、変を起こす一日前に光秀は、この人物を呼んで、歌会が始まるわけだが、ここで光秀の句を紹介しよう。
"時は今天が下しる五月かな"
少し歴史に興味ある人なら一度は聞いたことがあるこの句。"時は今"という響きがなんとも決意の表れととれるだろう。そしてこの席に、変前に情報が漏れて信長に逃げられてはまずいというこの席で、わざわざ表明する必要があるだろうか?この句も本能寺の変をよりミステリアスにしておる原因であろうな。
結論として、もし黒幕説が真実だとすれば、今までに述べた人物たちが共同して信長討ちを計画したというせんが非常に高いかもしれぬな。

2008年2月19日 (火)

本能寺の変真相その4

怨恨説、野望説、そしてそれに続くのが黒幕説である。おそらく歴史に多少とも興味あるひとはこの説がおもしろいかもしれぬ。年末年始に"信長の棺"スペシャルが放送されたが、その中では秀吉が関わっておる展開であった。また歴史小説などで家康が関わる展開もあったが、歴史学者の中でこの二人が関わっていることを主張するひとはあまりいないようだ。まぁ少し考えてみれば、この二人はシロだろう。秀吉は変が発生した時、中国地方の毛利氏と戦さしておった。光秀は変後の戦後処置として毛利氏に信長を討ったことを伝える使者を放ち、毛利氏と共に秀吉を討つ事を考えていた。だが使者は秀吉の陣でたまたまつかまり、運良く秀吉に情報が漏れただけで、その結果、後に光秀と戦うことができたのだ。いくら要領のいい秀吉でも、ここまで危ない橋は渡らないだろう。また家康だが、こちらは堺見物中に変が発生したわけだが、信長の同盟者である家康も抹殺するため、光秀は追っ手を放っておる。家康は堺(大阪)から自国領土である三河(愛知県東部)まで、少ない近習と共に命からがらに逃げ帰っておる。到底そんな余裕はなかったわけだな。後に天下を統一する二人も、ひとつ間違えば、この世にいなかったわけだ。では黒幕はいないのであろうか?ここで近年、学者の中で提唱された黒幕説として、朝廷がからんでおったというのが興味深い。朝廷すなわち天皇や親族にあたる皇族だが、信長の天下統一が進むにつれてある種の身の危険を感じたわけだ。戦国時代の朝廷は政治的権威はまったくなく(将軍でさえ無視される時代だからもっともである)、扶持も獲得できなかったため、かなりの貧窮状態であった。京にある皇族の屋敷もぼろぼろであったという。そこで金をもっている大名にすがるわけだが、信長の父信秀はよく献金を納めていた。信長も父の教えを継承したようだ。代わりに朝廷は官位を武家の棟梁に与えることでGIVE&TAKEが成り立つ。また信長も朝敵討伐という大義名分も得るわけである。しかし、将軍を追放し、権力が大きくなるに従い、信長はその朝廷をも支配下におきたくなったのだろう。自分を神とあがめよと言ったぐらいの信長だ。ありえない話でもない。ここで資料として、皇族のひとりが当時の日記を書いておる。皇族の日記関連は第一級資料で信憑性は一般に高いと言われておる。これによれば、信長に将軍・太政大臣・関白のどれでも好きな官位を与える使者を出したとある(以後これを三職推任と言う)。信長はこの時、毛利氏という強敵を控え、事務処理に携わる余裕がなく辞退しておる。しかし一度既成事実を作ることでその後の統一を有利に進めることぐらいは考えていただろう。官位を与えるためには、まずその空きを作らねばならぬ。また武家の最高権力を意味する官位であるので、通常は親族と共に数日は吟味するのが通例だったようだ。事実、信長が左大臣という官位をもらう時も数日を要していると同文献にある。ところがこの三職推任に対してはなぜか、あっさりとOKの許可がでたようである。そしてその三職推任のたった一月後に変が起こるわけだ。もともとは信長の方から裏工作で要求したとの見方もあり、そうなるとさらにきな臭い。けじめのつかぬことを非常に嫌う性格である信長が、このいいかげんな事務処理でやっぱり官位をあげれませんなどと言われたら、普通の大名のようにただで引き下がるとは到底思えぬ。しかも事実、信長は別件だが皇族相手にもきれたことがあるようだ。つまり変が起こることが予めわかっていて、その場がしのぎればいいということである。この朝廷黒幕説、実は物的証拠がまだあるが、それは次回にしよう。少しは楽しめたであろうか。

2008年2月14日 (木)

本能寺の変真相その3

さてまた続きといこう。眠らないでちゃんと聞いてくれよ。怨恨説と並ぶ説に野望説がある。光秀が信長に仕えた当時から天下統一を密かに狙っていたということだ。信長が京の本能寺に出向いた時、たまたま主な重臣達は日本全国に地方軍司令官としてちらばっていた。中国地方は羽柴秀吉、北陸方面は柴田勝家、四国方面は丹羽長秀、関東方面は滝川一益、そして信長の同盟者家康は先に述べたように安土で接待された後、わずかな供と共に堺(大阪)見物といった具合である。さらに光秀は秀吉助太刀のため自国の丹波(京都)にて兵を集めるが、ここは本能寺のすぐ近くに位置する。乱を起こす上でこれほどの好条件はまずないだろう。怨恨説を主張する主な書は江戸時代に書かれたが、野望説をおす書は、秀吉時代に書かれたものが多い。通常、より時間に近い方が真実に近いのだが、ひとつ問題がある。秀吉の政権下で、怨恨が動機となった場合、光秀に同情の余地が入り、織田政権を奪った秀吉にとって都合が悪いのである。そこで野望説をピックアップさせれば、大義名分が立つのである。下克上の世とは言っても天下を統一するには戦に負けないのはもちろん、大儀名分がなければ、ひとびとはついてこないのであったわけだ。

2008年2月13日 (水)

本能寺の変真相その2

さて前回の続きといこう。光秀謀反の動機として古来よりもっとも言われているのが怨恨説である。先に述べたように光秀は信長に重宝されており、織田家家臣の中では秀吉と並ぶ出世頭であった。家臣の中で一番先に城を持ったのは何を隠そう光秀である。信長はかなりの合理主義者で、父信秀以来、織田家にずっと仕えてきた重臣達も政策・戦略の要領が悪いと信長に判断されると有無を言わせず、織田家から追放されている。そういう中で光秀・秀吉を見習えと家臣どもにハッパをかけていたぐらいだ。しかし変が発生するたった一年ほど前からこの関係がぎくしゃくしだしたようである。もともと信長は気性の激しい性格で少しでも気に入らぬことがあると光秀(というか家臣全員に対して)かなりきれていたようである。ある城を落とす時に司令官である光秀は、敵の城主の投降と引き替えに自分の母(一説にはデマ)を人質として差し出した。しかし信長は城主の命乞いを許さず、その場で切ってしまった。怒った敵の城主の家臣は見せしめに光秀の母を切ってしまったという話がある。また、ある時、数年来かかった武田攻めがいよいよ終わるという段階で、光秀がわれらもよう骨折って辛抱したと言ったのを信長が聞きとがめ、おまえがどれほどの骨を折ったかと光秀の頭を何度も殴りつけたということである。さらに、その武田攻め完了の祝儀で徳川家康が尾張に出向いた時、光秀は信長から接待役を命じられておるが、取り寄せた料理の素材が腐り、異臭がしたので信長が怒りまくり、金品を自費で投じた光秀の接待役を取り上げてしまった。その代わりに、中国地方の強敵毛利氏に対する軍司令官である秀吉の助太刀をするように命令されている。しかも光秀が今知行しておる国を取り上げ、毛利氏領土の国を切り取りしだい与えるという命令であった。知行地がなくなるということは、家臣達の扶持も確保できないので、事実だとすれば無茶な話である。ライバルである秀吉を助けるということも光秀のプライドが許さなかっただろう。怨恨説にリンクするが、あまりにもきれまくる信長に対する将来不安説による突発的な事件だという見方もできる。

2008年2月12日 (火)

今年初の秋葉出陣

Akiba2_2 皆の者、大儀である。久しぶりに秋葉へ出陣したので報告しておこう。前日東京は雪に見舞われ、出陣決行は微妙であったが、申し分ない天気になった。供の衆はこのブログでもおなじみの某S殿、それに近習である。秋葉へ手間暇かけて行くからには、ネタを探さなならん恐怖に陥る信長だが、本日は美少女戦士に登場願おう。一緒に参った近習の話では日曜日はどうもヒーローものが改札前でたむろしているようだ。この女戦士(少女でもなさそうだが)、サンプルDVDも一緒にフリー配布しておった。家に帰って鑑賞したが、どうもストーリーが難解すぎて理解不能であるw。しかし日々拳法練習などトレーニングしとるようじゃな。怒らせたら投げ飛ばされるようで怖いぞよ。これからも地球平和のため、がんばってほしいと思う信長だ。後ろにショッカーもどき人たちがいるが、このお方らも同じグループのようじゃな。さて今日はさる武将に頼まれた工作部品等を調達しにやってきたが、途中S殿がいろいろアドバイスしてくれ、やはりプロが近くにいると安心安心だな。買い物もひととおり終わり、休憩の定番メイド喫茶だが、S殿も慣れてきたせいか、リラックスしてたようである。それにしてもメイドさんにミルク・ストロのセッティングをしてもらう時、それまで続いていた会話が突然止まり、し~んと静まりかえるのは、どういうことであろうか?まるで皆が、この時間のために時を過ごしてきたような感覚。。。単に緊張なのだろうか。

2008年2月 9日 (土)

球春到来

本日は顔見知りの武将達と秋葉出陣の話もあったが寒いのでやめた。こういう日はこたつに入って家に居るにかぎる。今ケーブルテレビで猛虎キャンプレポートを見ておる。便利な世の中になったもんだ。一昔前ならこの時期はプロ野球の生放送がなかったからな。しかし選手もキャンプからずっと見られてとなると練習も手抜きできんだろうな。大変な商売である。今年の目玉話題はジャイアンツの大型補強だろう。オーナーでもかわらんかぎり方針はかわらんようだ。ラミレス(去年のセリーグ首位打者・打点王)、グライシンガー(去年のセリーグ最多勝)、クルーン(ストッパー)と、去年優勝したにも関わらず(わしは個人的にクライマックスシリーズはおまけだと思う)よくもこれだけ補強したもんだ。しかしある意味、ジャイアンツがメジャー流出の歯止めになっている点もまた見逃せない。福留にしても一時ジャイアンツという話もあったのだからな。メジャの高額年俸と比べると日本の年俸は低い。日本のプロ野球ファンとして寂しい思いがする。さてジャイアンツの補強についてだが、日テレの江川氏いわくぶっちぎりで優勝らしい。しかし、わしが思うにいつの年もそう簡単にはいかないのがペナントレースの展開なのだな。ラミレスはもう何年も日本でやっとるし、そこそこ成績は残すだろう。グライシンガーは確かに去年はよかったが、まだ一年しか日本でやっていないのでデータ分析された今後がどうかなと推測される。クルーンについては、横浜で抑えを数年やっとるが、一時期よかった頃に比べてここ数年安定感にかけている。去年の上原が安定してただけにこちらもふたを開けてみるまではなんともいえん。最初にうち崩せば展開は大いに変わるだろう。ただいずれも外人なので周りの環境にはそんなに振り回されないだろう。でもラミレスが巨人入りでひげを剃ったのには笑ったが。こういう世の中になっても球団としての伝統があるんだろうな。この巨大戦力ジャイアンツに対する愛すべきタイガース。野村時代にキャンプレポートを見だしてからファンになったが、あの頃の暗黒時代に比べると戦力はずいぶんとアップした。じゃがいつの時代もキャンプだけ見てると今年は100勝ぐらいするかもと、先発の数を数えるがそう筋書きどうりにはいかない。去年は結局井川の穴が埋められず、先発で苦しんだ。福原・安藤で5勝でよく3位に食い込めた。先発候補は安藤・福原・下柳・上園・ボーグルソン・杉山・能見・移籍組の金村・新外人。安藤・福原あたりが二人で最低20勝近くはしないと苦しい。とにかくJFKの負担を減らす展開にしないと去年のように最後で息切れするだろう。JFKの一員久保田を去年酷使したツケがこなければいいが。。。打線は広島から新井を獲得したが、脂ののった年で、同じリーグで実績抜群なので、こちらはかなりの得点力アップとなるだろう。金本の負担を少しでも減らしてほしい。有名な話だが広島時代、金本は新井を弟分としてかわいがっていたようだ。今回の移籍も金本からの話が大きいようだ。新井の能力ならメジャーに行ってもいいのに、ありがとうといいたい。今岡がそれに発憤して相乗効果でいってほしいもんだ。去年は先発の勝利数が極点に少なかったが、先発が投げる5・6回まで点がほとんどとれず、先発が楽に投げれなかった試合を何度も見たもんだ。ことしはそのような胃の痛い試合はあまり見たくないもんだ。

2008年2月 8日 (金)

一服ばかりじゃないが

以前ここで発表した電工掲示板だが、動画の方がわかりいいのでUPしておこう。機能仕様だがパソコンから文字パターンを232C経由で転送できるようにしておる。転送ソフトは某武将のヘルプでなんとか完成できた。写真のような感じで漢字も出力可能である。入力した文字をWINDOWSに描画させ、パターンを送信するんだが、見てのとうり8x8ドットなので漢字はわからんぐらいあらいわな。じゃがドットマトリックスの大きさおよび値段からこのパターンが一番安かったのだな。いずれ16x16ドットにも挑戦したいがな。筐体は100金で取得したものだ。この装置は会社に常駐でタバコが吸いたい時に席を離れるのでメッセージボードとして愛用しておる。誰も見てないかもしれんが。。。自己満の世界(笑)。Ca390025

2008年2月 7日 (木)

おまけの付録

誰か去年のトランジスタ技術8月号の付録基盤余ってない?ROMライターなしで簡単に書き換えできっから重宝するんやが。会社で買って付録使ってないとか(笑)。Ca390021

2008年2月 6日 (水)

カップ麺が待っておるのに

時は金なり計画のその後だが、実はここまでは実験できとる。手ごろな大きさにするのにユニバーサル基盤をカットせねぇならぬが、ここで作業が停止中。そろそろ真面目にやるとすっか。元ねたはこれでした。Ca390010_2

2008年2月 5日 (火)

本能寺の変その真相

またブログ書けないモードにならない内にUPしておこう。日本人なら誰もが知ってる本能寺の変について、その真相をいろいろと推理したい。一度に書ききれないので連載物でいこう。天正10年(1582年)旧暦6月2日明け方、わしは明智光秀に本能寺で討たれた。生涯戦い続けやっとの思いで天下統一を目前に控え、さそがし口惜しい思いをしただろうと常人は思うだろうが、そこは信長の潔い所で、謀反の主導者が光秀であると知ると、一言だけ"是非に及ばず"と言い残し、数少ない家来衆と共に戦って散ったとある。この謀反の真相は古来より歴史学者によってさまざまな説が提唱された。ただ、その証拠となる文献は江戸時代になってから書かれたものも多く、表現が誇張されていたり、同じ時期に書かれた書でも内容が微妙に違うなど、資料として難しいところがある。しかし、これらの文献を全く無視しても歴史学が成り立たないのである。前置きが長くなったが、まずは光秀の出目(出身地)や信長へのアクセス過程などを見てみよう。実は光秀が信長に仕官する前の若かりしころの確かな文献というものはまだない。ある文献の中で美濃国(岐阜県)の住人で明智十兵衛尉なる人物がいたと書かれており、一般的にはこれを光秀としているようだ。この人物かなりの身分であると書かれているが、そのような人物がある日突然歴史に登場するようなことはあまりなく、後世、書かれた家系図の父親やその書の父親が一致しないなど、不明な点が多い。また別の書では諸国を浪人として放浪していた時期もあったとか、あるいは足利将軍の近臣団の中に明智という名の人物がいたとか、はたまた信長の正室濃姫の親戚であったとか、これだけひとつとってもさまざまな説がある。歴史的に確かなことは、信長が新将軍を推挙するため、京に上る時、細川藤孝という将軍の近辺衆と共に信長と将軍家との間を取り持っているようだ。以後、信長の家臣となる訳だが、そういった将軍家や朝廷との緩衝剤として信長が光秀を多用したのは言うまでもない。

2008年2月 4日 (月)

新年の義執着至極

さる武将より記事催促の早馬が参った。すっかりブログアクセスしないモードに体がなっちまったが、皆の者、明けましておめでとうござる。わしの生まれた時代は旧暦採用でな、一月ばかりずれとるのだ。と言い訳はここまでにして、わしにも書けないスランプがあるのだ。。。ゆるしてたもれ。今日はお詫びと言ってはなんだが、次期総裁候補(たぶんまた邪魔が入るだろうが)のこのひとに登場してもらおう。その名も”べらんめぇ”党首。首脳会談だろうがなんだろうが”べらんめぇ”口調で乗り切ってほしいが、おそらくまとまらんだろうな。選挙区がわしの地元だったとはつい最近までつゆしらず。愛読書は"ゴルゴ13"と前に言うとったが、なんでも国際情勢がよくわかるらしい。ちょっとおたくちっくな雰囲気が漂う67歳。Ca390011 Ca390014

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